Share

第2話 記憶のない男

last update publish date: 2026-07-16 07:04:46

 柊の家は、山の麓にある。

 退魔師の家系らしく、敷地は広い。母屋の周囲には結界石が埋められ、軒下には魔除けの御札が連なっている。だが今夜、その玄関をくぐったのは、祓うべき対象と限りなく近い何かを連れた柊だった。

「……入ってください」

 引き戸を開けながら、自分の選択を反芻する。

 正気か、と問われれば、わからない。記憶を持たない正体不明の男を、退魔師の家に連れ込む。冷静に言葉にすれば、それはひどく無謀なことだった。

 でも命が繋がっているのだと、男は言った。

 打算か、情か、自分でも判然としないまま、柊は男を上がり框へ促した。

「お父さんもお母さんも、今夜は遠征で不在なので。見つかる心配はないです」

 男は無言だった。

 案内された縁側の間に腰を下ろし、ただそこにいた。手を膝の上に置き、背筋を伸ばし、まるで置物のように静止している。感情の読めない横顔が、行燈の灯りに照らされていた。

 柊は救急箱を持ってきた。退魔師の家のそれは、一般の薬のほかに、霊力回復に効く薬草の煎じ薬も入っている。男の消耗は尋常ではなかった。あれだけの力を使えば当然かもしれないが、顔色はいまだ白く、指先もわずかに震えていた。

「手を出してもらえますか」

 男は無言で右手を差し出した。

 掌を見て、柊は小さく息を飲んだ。傷があった。石畳についたときについたのだろうか、皮が剥けて血が滲んでいる。手当てをしながら、自分の手と比べる。大きな手だった。骨張っていて、でも細くしなやかで、どこか人間離れしていた。

「……痛みますか」

「感じない」

「感じない、って」

「痛みがわからない」

 淡々と答えた。感情を込める気がない、というより、感情という概念を知らないように聞こえた。

 柊は消毒液を含ませた布を傷に当てながら、男の横顔をそっと窺う。

「名前は覚えていますか」

「ない」

「どこから来たか、も?」

「ない」

「……何かひとつでも、覚えていることは」

 そこで男は初めて、少し間を置いた。

「月、が見えた」

 ぽつりと言った。

「目が覚めたとき、月だけがあった。あとは何もなかった」

 柊は包帯を巻く手を止めた。男の言葉には、嘘をついている気配がなかった。飾りもなく、誇張もなく、ただ事実だけを告げている。

「お前の家の結界、穴がある」

 唐突に話が変わった。

「え?」

「北東の隅。三箇所、石の配置がずれている。今夜のあやかしはそこから入り込んだはずだ」

 なぜそれを知っているのか、と聞こうとして、柊は止めた。聞いたところで、「わからない」と返ってくる気がした。それよりも、目の前の男が自分の家の弱点を把握していることの方が、不思議と不安ではなかった。

 不思議と、と柊は心の中で繰り返した。

 正体不明の存在を前に、なぜこんなにも落ち着いているのか。契りのせいだろうか。それとも、彼が今夜、確かに自分を救ったからだろうか。

「薬草茶を飲んでもらえますか。霊力の回復に効きます」

 湯飲みを差し出すと、男はそれを受け取り、一口飲んで、止まった。

「……苦い」

「ですね。でも効きます」

「お前は飲まないのか」

「私は霊力がほとんどないので、あまり意味がなくて」

 言ってしまってから、柊は苦く笑った。退魔師の家系に生まれながら、霊力が並以下。それが柊という人間の、どうしようもない事実だった。

 男は柊を見た。

「なぜ今夜、あの場所に一人でいた」

「任務です」

「一人で行くほどの実力があるのか」

「……ないです」

 正直に言えた。不思議なことに、この男の前では取り繕う気になれなかった。

「でも、行かなければならなかった。私は柊家の人間で、退魔師で。それ以外に、できることがないから」

 男はしばらく黙っていた。

 湯飲みを両手で包むようにして、また一口、苦い茶を飲んだ。

「お前は、強くなりたいのか」

「……なりたいです」

 答えてから、柊は気づいた。そんなふうに素直に口にしたのは、初めてかもしれなかった。強くなりたい、誰かの役に立ちたい。ずっと思っていたのに、言えなかった言葉。

「誰かを、守れるくらいに」

 行燈あんどんの灯りが、揺れた。

 男はそれ以上何も言わなかった。だが柊には、彼が答えを聞いたことがわかった。聞いて、どこかに仕舞ったことが。

 沈黙は、不思議と苦ではなかった。

 その夜、柊は客間に布団を敷いた。

 男にそこへ休むよう言い、自室に戻る。布団に入ったが、目が冴えていた。天井を見つめながら、今夜のことを整理しようとして、整理できなかった。

 契りが結ばれた、と男は言った。

 命を共有する、禁忌の契約。

 退魔師の書物で、読んだことがある。人とあやかしが魂を結ぶ古い術式で、どちらかが死ねばもう一方も消えるという。強制力を持つ誓約で、一度結ばれれば解く方法はない、と書いてあった。

 柊は自分の手を見た。包帯を巻いてもらった、ではない、自分で巻いた手。

 でも、なぜ結ばれたのだろう。触れただけで、何かを唱えたわけでも、意図したわけでもないのに。

 そして、あの男は何者なのか。

 あやかしを一瞬で祓った力。人間の霊力とは明らかに異なる、月光に似た青白い気配。記憶がなく、痛みを感じず、感情の気配が希薄。

 ひとつだけ確かなことがあった。

 今夜、柊は死ぬところだった。そして彼が救った。

 ──それだけで、十分だと思う。

 そう結論づけて、目を閉じたとき、廊下を歩く気配がした。

 静かな、しかし確かな足音。客間の方ではない。縁側の方へ向かっている。

 柊は起き上がり、足音を追った。

 縁側に、男が立っていた。

 雨戸を細く開けて、外を見ている。その先には、まだ沈まない満月があった。

「……眠れないんですか」

 声をかけると、男は振り返らなかった。

「眠り方がわからない」

「眠り方、が?」

「目を閉じると、何も見えない。それだけだ。意識が落ちるということが、どういうことかわからない」

 柊は隣に立った。二人で並んで、月を見た。

「眠れないのは私もです。今夜はいろいろありすぎて」

 男はそれには答えなかった。

「あなたに、名前を付けてもいいですか」

 口をついて出た言葉だった。

 男が初めて、柊の方を向いた。

「名前は持っていない、と言ったろう」

「だから付けたいんです。名前がないと、呼べないから」

 満月を見上げた。白く、朧げに滲む月。

おぼろ、はどうでしょう。月が霞んで見えるような、今夜みたいな夜の名前」

 男は少し、視線を上に向けた。月を見た。

「……朧」

 自分の名前を初めて口にするように、静かに繰り返した。

「好きにしろ」

 今夜二度目の、その言葉。

 でも柊には、今度のそれが最初とは少し違う響きに聞こえた。拒絶ではなく、受け入れる手前の、小さな間のように。

「朧さん。明日のことは、明日考えましょう」

 男、もとい朧は答えなかった。

 二人はしばらく、言葉もなく月を見ていた。

 満月は静かに傾きながら、人とあやかしの境で結ばれた奇妙な縁を、ただ黙って照らし続けていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 月喰いと契りの巫女   第30話 そして、満月の夜に

    季節が、三つ変わった。山葵沢に、春が来て、夏が来て、秋が来た。柊はその全てを、ここで過ごした。春。土が柔らかくなった頃、朧が黒い土に手を触れた。力を込めた。光が、土に染み込んでいった。翌朝、草の間から──小さな芽が出ていた。柊はその芽を見て、声を上げた。「出た」「ああ」「本当に出た」「出ると言った」「言ってたね。でも──見ると、また違う」「どう違う」「嬉しさが、倍になる」朧はその芽を見た。「倍か」「うん。知ってたことが、本当になる瞬間が──一番嬉しい」朧は柊を見た。「それは──期待が、現実になるということか」「そう。約束が、叶うということ」「……そうか」朧は芽を見た。その目に、柊が初めて見る表情があった。何かが、満ちているような──静かな表情。「朧、今──どんな気持ち?」「名前がわからない」「どんな感じ?」朧はしばらく考えた。「ここにいていい、と──思えている」柊の目が、細くなった。「それは──安心、かもしれない」「安心」「うん。自分の居場所が、ここにある、と思える感情」朧はその言葉を、静かに転がした。「……安心」「ある?」「ある」柊は笑った。朧も──笑った。芽が、朝の光を受けて、きらきらと輝いていた。夏。川へ行った。約束通り。山葵沢から少し下りた場所に、清流があった。

  • 月喰いと契りの巫女   第29話 消える月

    柊の実家は、山を二つ越えた先にあった。退魔師の家系らしく、山の中腹に建てられた古い家だった。結界が張られていて、あやかしが近づけない構造になっていた。朧はその結界を、入口の手前で感じた。「ここまで来ると、わかる」「結界が?」柊が聞いた。「圧がある。昔なら、弾かれていたかもしれない」「今は?」「今は、感じるだけだ。入れないわけではない」「よかった」柊は門の前に立った。深く息を吸った。吐いた。「緊張してる?」「してる」「俺も」柊は少し驚いた。「朧も?」「お前の家族に会うことは──初めてだ」「そうだね」「何を話せばいいかわからない」「正直に話せばいい。朧は、正直だから大丈夫」「正直すぎると、問題が起きることもある」「私がいるから」「頼りにしている」「うん」柊は門を開けた。母が出てきた。四十がらみの、柔らかい目をした女性だった。柊の顔を見た瞬間、その目が細くなった。「柊」「ただいま、お母さん」「無事だったんだね。よかった」母は柊を見た。それから──朧を見た。銀色の瞳に、少し驚いた顔をしたが──怯えはなかった。「この方が──朧さん?」「うん」柊は言った。「朧。私の母だよ」朧は母に向かって、頭を下げた。「お世話になっています」「こちらこそ」母は静かに言った。「柊が、色々と──お世話になったようで」「俺の方が、世話になった」母は少し目を細めた。「中に

  • 月喰いと契りの巫女   第28話 契りの果て

    山葵沢へ向かう日の朝、空が曇っていた。雨になるかもしれない、と蒼真は言った。「それでも行くか」「行く」朧は言った。「雨の中で、壊した場所を見ることになるかもしれない」「雨でも、晴れでも──変わらない」蒼真は頷いた。「そうだな」久瀬は、約束通り来ていた。宿の前に一人で立って、三人を待っていた。昨夜の対話のときより、少し──柔らかく見えた。刀は差していたが、手は柄に触れていなかった。「来たか」「来た」朧は言った。二人が向かい合った。しばらく、沈黙があった。「道中、話せるか」久瀬が言った。「話す」「嫌なことを聞くかもしれない」「聞く」久瀬は朧を見た。「……行くか」五人で、山道を歩き始めた。山葵沢は、二つの山の間にある細い谷に沿った集落だった。三刻ほど歩いた先に、それはあった。近づくにつれて、柊は気配を感じた。古い気配だった。何かが、長い時間をかけて積み重なった──静かで、重い気配。「ここだ」久瀬が足を止めた。谷の入口に立って、奥を見ていた。集落の跡があった。石垣が残っていた。家の基礎だったものが、苔に覆われて残っていた。井戸が一つ、草に埋もれながら残っていた。誰も住んでいなかった。随分前に、誰も住まなくなった場所だった。「二百年以上前に、ここで何かがあった」久瀬は静かに言った。「俺の家に伝わる話では──山が燃えた夜に、集落が消えた。生き残った者が、山を下りた。それが、俺の先祖だ」朧は谷の奥を見ていた。銀色の瞳が、何かを見ていた。

  • 月喰いと契りの巫女   第27話 最終決戦(後編)

    山の中の対話は、長かった。月が中天を過ぎても、終わらなかった。五人の退魔師たちは、最初は刀を手放さなかった。それでも、話した。一人が話し始めると、別の一人が続いた。長年、退魔師として生きてきた中で積み上げてきた恐れが、少しずつ──言葉になって出てきた。「俺の父は、あやかしに殺された」一人が言った。若い退魔師だった。二十代の半ばくらいに見えた。「山の集落で生まれた。幼い頃、父が討伐に出て──戻らなかった。だから退魔師になった」誰も、何も言わなかった。「あやかしを全部斬れとは思っていない。でも──信じることが、できない」その言葉は、正直だった。恐れを隠さない、正直な言葉だった。朧は若い退魔師を見た。「それは──正直なことだ」「……」「俺も、信じることを求めない。ただ──お前の父を殺したあやかしが何者だったか、俺にはわからない」「わからなくていい。あやかしだった、それだけだ」「そうか」朧は静かに言った。「俺が壊した集落にも、同じことを言う者がいるかもしれない。月喰いだった、それだけだ、と」若い退魔師は、朧を見た。「だが──」朧は続けた。「それだけ、では終わらせたくない。お前の父の話を、もっと聞きたい」若い退魔師は、目を瞬かせた。「……なぜ」「俺がお前の父を殺したわけではない。だが──俺も、誰かの父を奪ったかもしれない。それを、ただの過去にしたくない」「どういう意味だ」「過去を聞くことが──俺にできる、最初のことだと思う」静寂が降りた。若い退魔師は、しばらく朧を見ていた。それから、刀を──地面に置いた。まだ鞘に収めてはいなかった。でも、手放した。「父

  • 月喰いと契りの巫女   第26話 最終決戦(前編)

    三日後、桐生から正式な連絡が来た。 「討伐命令を、一時停止とする」 蒼真が報告を読み上げると、宿の中が静かになった。 停止。取り消しではなく、停止。 「どういう意味だ」朧が言った。 「連合の全員が納得したわけではない」蒼真は静かに言った。「だから──完全な取り消しはまだできない。ただ、実行を止めることには合意した」 「条件は?」 「月喰いが、人を傷つけないこと。連合の監視下に置かれること。そして──白面のような事態が再び起きたとき、協力すること」 朧は少しの間、考えた。 「受け入れられるか」 「俺はそう思う」蒼真は言った。「完全ではないが──始まりとしては、十分だ」 柊は朧を見た。 「朧は?」 「受け入れる」朧は静かに言った。「条件が何であれ──ここにいる理由ができた」 「ここにいる理由、か」 「ここにいていい、ということだ。それが──今は、十分だ」 柊の胸が、温かくなった。 最初に出会ったとき、朧は自分がここにいる理由を知らなかった。 今は──ある。 それがどれほど大きなことか。 「よかった」 「ああ」 蒼真は報告書を折りたたんだ。 「桐生さんは──もう少し交渉を続けるつもりらしい。完全な取り消しを目指して」 「時間がかかる」 「ああ。だが──」蒼真は朧を見た。「それまでの間に、お前が何をしているかが、交渉に影響する」 「つまり、見られている」 「見られている。だ

  • 月喰いと契りの巫女   第25話 選ばなければならない

    満月の夜が明けた。朝霧が山を包んでいた。柊は泉のそばで目が覚めた。いつの間に眠っていたのか、自分でもわからなかった。気がついたら、苔生した岩に寄りかかって、眠っていた。隣に、朧がいた。眠っていなかった。ただ、柊の隣に座って、夜明けの空を見ていた。「おはよう」「ああ」「ずっと起きてた?」「ずっと」「眠らなくていいって言うけど──疲れない?」「疲れるという感覚が、少しわかってきた」柊は少し驚いた。「最近?」「ここ数日で」「それは──」柊は考えた。「人間に近づいてきてるのかな」「そうかもしれない」「嫌じゃない?」朧は少し考えた。「嫌ではない。ただ──新しい感覚だ」「私、教えることが増えそう」「頼む」その返事が、あまりにも真剣だったので、柊は笑った。朧は笑わなかったが──口の端が、わずかに上がった。山を下りると、蒼真と桐生が宿で待っていた。二人とも、眠っていない顔だった。「各地の報告が入ってきた」蒼真は言った。「白面の気配が消えると同時に、あやかしたちの暴走も止まった。被害を受けた集落の幾つかで、小さな衝突が残っているが──大事には至っていない」「よかった」「ただ──」蒼真は少し間を置いた。「人とあやかしの間に生まれた亀裂は、残っている。白面がいなくなれば全て解決する話ではない」柊は頷いた。「わかってる」「時間がかかる」「うん。でも──時間をかけられる、ということでもある」蒼真は柊を見た。「……そうだな」桐生が口を開いた。「月喰いよ」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status